「あきらめるな」というけれど,あきらめは必ずしも「終わり」ではない


たまたまとあるブログにて、「自分は研究者になる道を諦めてしまったが、諦めなかった同僚達は10年経った今それぞれ立派な研究者になっていた」というような記事を読みました。今日はその記事をみて思った「あきらめる」ということについて少し書こうと思います。

僕はもともとかなり「へこたれやすい」学生でした。どちらかというと硬直したマインドセットを持っていた (今でもナチュラルにはそうなのかも) と自分では思います。小さな失敗でも「もうだめだ」とへこたれ、諦めが簡単に心を覆ってしまうような学生時代だったと思います。優しい恩師にいつも励まされていました。

あまり失敗慣れしていなかったからかも知れません。どちらかというと小学生の頃はもともとは「優等生」の部類でしたから、人生をさかのぼればさかのぼるほど「失敗」が少なかったのかも知れませんね。所謂「完璧主義」を発達させ、時間をかけてクオリティを極限まで高めていたのは、実は全力で「失敗を回避していた」という側面もあるのかも知れません。

いろいろと「あきらめ」てしまったものもあります。その中でも一番大きな経験は、おそらく「アメリカのトップ大学院に留学したにも関わらず、博士取得という当初の目的を達成せずに修士号で大学から社会へ出た」というエピソードでしょう。米国Carnegie Mellon大学の計算機科学部 (CS Department) というところで博士課程の学生兼研究員をはじめた私は、当時それは大きなプレッシャーの中にいました。研究遂行の責任感。家族からの期待。出身大学からの期待…。そのような中、袋小路に行き詰まり、自分でも覚えていますが「まさに清水の舞台から飛び降りる」心境で、学業を中断し社会に出ることにしました。その時私は、自分の覚えている限りでは、「博士取得」という道を完全に一度あきらめました。それだけではありません。一度は「IT」関連の道もあきらめた記憶さえあります。「なんか資格取ろっかな〜。」とか思ったことも覚えています。

その後の話はまた長くなるので別の機会に書きたいと思いますが、清水寺から飛び降りた私はその後、5年以上社会人生活を送り、そしてその後ふとした瞬間に、ふたたび「博士を取ろう。研究者になろう。」という決意をするに至りました。「これだけはやり遂げないと。そして今しかない。」という心境が、数年以上たった後にやってきました。幸いご縁あって、もといた日本の大学院に再度入学し、今回は無事博士号を取り終えて大学教員をする自分が今ここにいます。

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こういった再チャレンジは必ずしも誰もが誰もできる訳ではないとは思い、私の環境やめぐりあわせに非常に感謝する次第ですが、私がこの経験を経て得た知見に、世の中で良く言われる「あきらめたらそこで試合終了ですよ。」(漫画SLAMDUNK 安西先生のことば) に関するものがあります。より社会的にも有名で、よく自己啓発書などにも登場する松下幸之助のことばに

「あきらめてしまうことは簡単である。そんなことはいつでもできる。しかしながら、あきらめてしまえば、それで事は終わりである。だから私はあきらめなかった。」

や、

「失敗したところでやめてしまうから失敗になる。成功するところまで続ければ、それは成功になる。」

があります。研究やスタートアップ事業などの文脈で引用されることが多い言葉ではないでしょうか?まさに「不屈の精神」といった感じの言葉ですが、ここに関して私が言えることは、むしろその先、つまり「あきらめる」のその先です。たとえ一回あきらめたとしても、それを最終的な結論とするかどうかは、結局のところ自分次第であり、また一旦自分で「最終的な結論だ」と思っても、何らかの外部変数の変化でそれが変わる可能性もある。時が経ち、状況や環境が変わり、自分の技量も変わり、さまざまな変化が起きる中で、一度あきらめたものでもまたリスタート (“restart”なのか、新たな”brand new start”なのかは人それぞれですが) できる可能性はあるのです。

学位取得という道を一度は完全にあきらめ、しばしの時間・経験・環境変化のあとに、ふたたびその道をスタートして最終的に成し遂げることが出来た体験を通じて、私は「あきらめる」行為それ自体が、「最終的な行為」ではなく、ひとつの「途中経過的な行為」になりえることを理解しました。

「さすがにもうだめ。これで終わりだな。」と思ってからが実は本当のスタート…。そういう認識、マインドセットが自分の中で作れれば、結構シメたものじゃないでしょうか。「あきらめてもいい」「あきらめて楽になってからまたやる気がでることもある」と思えば、意外と気楽になれるというものです。そしてそのような認識は、なにも巨大な「あきらめ」エピソードを経験しなくても作れるのかも知れませんね。日々の生活の中でのちいさな「あきらめ」のエピソードの後に、自分の行動にこれまでとは違った少しのスパイスをいれるだけで、「あきらめ」に対する認識は変わり、「途中経過的な行為」として捉えられるようになるのかも知れません。

「不屈の闘志」は、実は、一回「屈し」ちゃってからでも、しかし不死鳥のように? (もしかしてゾンビだったりして?) 「何度でも蘇る」ことができる意思のことを言うのかも知れませんね。そしてなんで「何度でも蘇る」ことができるのか? それはやはり自分が好きなことだからのだと思っています。その話はまた別の機会に。